History

田原坂の戦いと、日本赤十字社の誕生

1877年、日本は歴史上、最後の内乱の最中にありました。
西南戦争。
明治の世を切り拓いた維新の志士の1人、西郷隆盛が、袂を分けた政府の方針に抗った戦いです。
人望ある西郷のもとに駆けつけた大勢の士族、即ちかつての武士たちが、九州は薩摩、現在の鹿児島県で立ち上がりました。
当時、政府に不満を抱く士族たちの反乱が発生していましたが、西郷の挙兵は、そのなかでも最大のものでした。

戦上手な西郷と、気勢上がる士族たち。
政府軍は最新鋭の兵器と、新たに編成された軍隊で反乱の鎮圧に臨みます。
薩摩へ向かい九州を南進する政府軍と、北上して迎え撃つ西郷軍。
最大の激突が起こったのは、熊本でした。
その場所は、現在の熊本市北部にある田原坂。
1877年、3月4日のことです。

田原坂は、今でこそ、小さな坂という印象ですが、当時、この坂道は北から熊本へ向かう際、大砲隊が通れる唯一の道。
政府軍は進軍のため、ここを通らざるを得ません。
一方、西郷軍は、ここを死守すれば政府軍の南進を食い止められます。
田原坂一帯の制圧は、双方にとって勝敗を左右する戦いでもあったのです。

戦いは熾烈を極めました。
数に勝る政府軍ではありましたが、狭い道での戦いのため数の有利を生かせず、さらに坂のある山の繁みに隠れて待ち伏せするなど、
自然を巧みに利用する西郷軍に手こずります。

こうして3月4日に始まった戦いは、一進一退。17昼夜にわたる激戦となりました。
記録では政府軍が一日で32万発の銃弾を使用した日もあったといわれています。
この17昼夜は雨の日も多く、兵士たちは泥と血にまみれて戦い、そして命を落とし、次々と大地に横たわっていきました。

田原坂の犠牲者は約4000人といわれています。

一方、この悲惨な戦いの報を聞いて、ある思いを抱いた日本人がいました。
佐野常民。
当時、政府の元老院議官を務めていた人です。
佐野は西南戦争で多数の死傷者が出ているという話を聞き、戦争・紛争時の傷病者救護の必要性を痛感。
すでにヨーロッパで活動を始めていた、赤十字と同様の救護団体をつくろうと考えたのです。
実は佐野は、かつてヨーロッパ視察の経験があり、その際に設立したばかりの赤十字の姿を目にしていたのでした。

佐野は同志であった大給恒と連名で発起人となり、政府に救護団体「博愛社」の設立を願い出ます。
しかし、政府は、趣旨に理解を示しながらも、現地での医療は足りていること、
新たな組織を作って救護員を派遣しても混乱が生じること等の理由で許可しませんでした。

そこで佐野は一念発起。
熊本へ出向き、政府軍の司令官である有栖川宮熾仁親王に直接、博愛社の設立を訴えました。
その行動は、赤十字の創設者であるアンリー・デュナンの姿とも重なります。

この熱心な訴えが認められて、1877年5月、博愛社は、その活動を許可されます。
すると博愛社の救護員は、ただちに田原坂へ急行。
両軍の傷病者の救護にあたりました。
西南政争は田原坂の戦い以後も続きましたが、博愛社もまた、救護活動を続行しました。
この時の博愛社の活動は、日本に「人道」という考え方を知らしめたといわれています。

博愛社は、やがて政府がジュネーブ条約に加盟すると同時に、日本赤十字社となります。

また、博愛社の設立を許可した有栖川宮熾仁親王が皇族だったということもあり、
博愛社、そして日本赤十字社の活動には、設立当初から皇室も積極的に支援・協力をしています。

特に明治天皇の皇后、後の昭憲皇太后は社会事業に熱心であることで知られ、日本赤十字社の活動、発展にも大きく貢献。
1912年に開催された赤十字国際会議をきっかけに生まれた「昭憲皇太后基金」は、現在に至るまで運用されています。

そして、設立のきっかけをつくった佐野は、日本赤十字社の初代社長に就任。
その死まで、赤十字の活動に身を捧げました。

現在、日本赤十字社は、国内での災害救護活動、海外での戦争・紛争への救援、開発協力など、幅広く活動しています。
その原点は田原坂の戦いにありました。
赤十字がソルフェリーノの戦いをきっかけに誕生したように、
日本赤十字社もまた、ここからすべてが始まったのです。